ラジオ放送のブームが起きた!みんなが「リスナー」!

 

無線で「ことば」や「音楽」をきくようになっていたのは、無線通信をしていた「アマチュア」の人々だった。ニューヨークで「無線電話会社」を設立して、「無線電話」の公開実験を繰り返していた発明家のド・フォレストは、彼らにとって憧れの存在だった。ド・フォレストは、「無線電話」によって彼の無線機器をアマチュアの人々に向けて宣伝し、アマチュアの人々はド・フォレストの「無線電話」をきこうとした。ド・フォレストは、音楽をなかなかきくことができない人がいるはずだと考えて、多くの家庭に「音楽」を伝えることを構想していた。

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「発明家」リー・ド・フォレスト博士 家庭用のコンセントの電源で使える「無線電話」の機器を試しているところ(おそらく1910年代の写真と思われる)

 

アメリカでは、軍事目的で無線通信が使われるようになる第一次世界大戦の前には、アマチュアの無線通信をしている人が、およそ数十万人いたとされている。「無線局」として電波を送信し、遠くの「無線局」とのやりとりをするアマチュアの人々が増えていき、「無線局」の数は、免許を受けていた局が1万以上、無免許の局を含めると15万局以上あったといわれている。このようなアマチュアの「無線局」のやりとりでは、見知らぬ人と出会うということが、いろんな偶然によって起きていた。

1917年、第一次世界大戦にアメリカが参戦すると、無線通信は連邦政府による統制のもとで管理されることになり、アマチュアの「無線局」はできなくなったが、複数の企業が持っていた無線技術に関する特許が統括されて、無線機器が大量に製造されるようになった。

1919年に第一次世界大戦が終わると、無線通信の利用についての議論が起き、アマチュアの人々の訴えが議会に影響を与えて、ふたたびアマチュアの無線通信ができるようになった。軍隊で無線通信士をしていた人々も、大量に製造されるようになった無線機器を使って、無線通信ができる仲間との間で「ことば」や「音楽」を伝えたりきいたりするのを始めたのだ。

アメリカのペンシルバニア州ピッツバーグで、フランク・コンラッドが始めた8XKは、第一次世界大戦後にアマチュアによって始められた「放送局」としてよく知られている。「ラジオ」や「放送」という言葉は、この頃から「無線電話」にかわってよく使われるようになった。コンラッドは、無線通信の機器を製造するウェスティングハウス社の技術者だったが、会社の仕事としてではなく、自宅で「ことば」や「音楽」を伝える放送局を始めていた。コンラッドは、第一世界大戦の前にも「無線電話」をやっていて、彼の自宅のガレージには、アマチュアの無線通信をしている仲間が集まっていたのである。

コンラッドの8XKは、近隣の人々にもきかれるようになって、「ラジオ放送」をきいている人々のコミュニティを生み出した。すると、音楽用品店がレコードを放送用に貸し出すかわりに店の名前を宣伝してもらうようにお願いしたり、地元の百貨店が地元の新聞の広告で8XKが放送している内容を紹介して無線通信機器の販売を宣伝したりするようなことが起きた。放送している地域においてこのような反応が広がっているのを知ったウェスティングハウス社は、コンラッドによるKDKAというラジオ放送局を始めた。無線機器を製造する会社は、ラジオ放送によって無線通信機器を使う人が増えていくことを期待したのである。

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この女性は、「ラジオ放送局」から多くの若者たちに向けて毎週火曜日と木曜日の夜に「身内」をなぐさめるような話をした(アメリカ、マサチューセッツ州メドフォードのラジオ放送局WGI、1922年)

 

1920年に開局したKDKAは、世界初の「ラジオ放送局」とよくいわれている。その理由として、多くの人に向けて、決まった時間に、予告されている内容を放送したということがある。これを「定時放送」という。放送される時間と内容を決めておくことは、「受信」が成功しているかどうかをチェックするために重要なことだったが、「ことば」や「音楽」が楽しまれているうちに、放送される時間を楽しみにする人が増えて、さらに多くの人が同時にきくようになるということが起こった。

また、KDKAは、大統領選挙の開票日に合わせて放送を開始していた。地元の新聞社からの「速報」を伝えて、その合間に「音楽」を流した。この番組は、全国での「ラジオ放送」の開局をうながし、数年後には、500以上のラジオ放送局がアメリカの各地で開局したのである。

1915年に大陸横断回線を実現していた電話会社のAT&Tは、全国に伸びている長距離回線を使って、地域の「ラジオ放送局」を結ぶネットワークを築くことによって、全国的な「放送」ができるのではないかと考えていた。それまでの「通話」の回線網において地域の電話会社が取り込まれていったのと同じように、地域の「ラジオ放送局」もAT&Tの「放送」のネットワークの一部になっていくかのように思われた。1922年に、AT&Tの子会社のウェスタンエレクトリック社は、ニューヨークにWEAFという放送局を開設し、全国のラジオ放送局を長距離電話回線でつないで、それまでの「無線電話」や「ラジオ放送」の先駆者たちと同じように、ワシントンでのクーリッジ大統領の選挙演説を全国に放送した。

しかし、電話会社では、全国的な放送のネットワークが実現しても、「放送」を続けるにはどうしたらいいのか、よくわからなかったといわれている。どのように料金をとって「放送」を事業として成り立たせるかについての試行錯誤が続いていたが、実際に「放送」を成り立たせるために重要だったのは番組の内容だったのである。大統領の選挙のような全国的なイベントはいつもあるわけではなく、全国の「見えない人々」に対して何を伝えるのかということが、電話会社の経営者やエンジニアにとっては難しい問題だった。WEAFは、音楽の間に広告を伝える「広告音楽番組」を始めていたが、この考え方は「広告放送」、つまり、日本における「民間放送」のモデルになっている。その後、電話会社は、放送する内容を制作せず、「広告代理店」が制作することになった。数年間の試行錯誤の後に、テレフォンの「独占」をめぐる政治的な理由から、AT&Tは「放送」の事業から手を引くことになったが、全国各地のラジオ放送局を結ぶネットワークはNBCというアメリカの「全国放送」の母体となった。

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ラジオ放送の受信機の前に集まって、ラッパのような「スピーカ」からの音声をきいている。ヘッドフォンを耳につけている少年は、電波の受信を調整する役なのだろう(アメリカ、1921年

 

ウェスティングハウス社のような無線通信機器を製造する企業は、「ラジオ放送」だけで独立した事業になるとは考えていなかった。しかし、「ラジオ放送」のブームによって無線通信機器の方が「ラジオ放送」からの影響を受けるようになっていく。「ラジオ放送」によって増えた「リスナー」の使い方に合わせて、すでに組み立ててある受信機が多く販売されるようになり、ラジオを楽しむための機器のかたちが変わってしまったのである。部品を組み立てる必要はない「ラジオ」の受信機は、放送されてくる音声をきくことしかできないが、家庭で使われる家具であるかのようになった。そのような受信機では、アマチュアの無線通信を趣味にしていない人でも、ラジオ放送の「ことば」や「音楽」を楽しむことができる。また、受話器のように耳に当ててきくのではなく、「スピーカ」で音声を鳴らしてきくようになった。「ラジオ」は、受信機から音声が流れてくる時間に合わせて、きいたり、踊ったり、集まったりするためのものになったのである。

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1920年代のラジオ受信機 これは組み立てられている部品が見えるようになっているが、その後は「キャビネット」という箱に収納されて見えないようになった